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【改訂版】大学院留学最初のセメスター その1

以下、以前に書いた記事を大幅に書き直したものです。

 

北米はThanksgivingの時期ですね。留学を開始して2-3か月経って授業や生活に慣れてきたものの、自分の英語力があまり向上していないことに対して落ち込みやすい頃でもあります。

 

このブログの読者のほとんどはTOEFL目標スコア獲得に苦労している(した)人のはず。「TOEFLなんて楽勝!」という人は読みに来ないので。つまり留学開始後、大学院・大学の授業についていくのに苦労する人です。

 

留学中の私もそうでした。

 

私の留学生活はテンプル大学本校(米、フィラデルフィア)で始まりました。留学開始の2年くらい前から、仕事の休みの日にテンプル大学の日本校に通い、大学院でTESOL(英語教授法)のクラスを1学期に1-2クラスのペースで取っていました。当時の私の仕事は 中学生と小学5-6年生を対象とした英語塾を経営しそこで教えること。仕事を辞めて留学すると決心した私は、仕事を信頼できる先生に引き継ぎ、秋からのテンプル大学本校への転校を楽しみにしていました。

 

ところが、テンプル大学「本校」に送付を依頼した、私が通うテンプル大学「日本校」での公式成績証明書が日本校に届くのが遅れ、結局、テンプル大学日本校から本校に書類を提出する期限を過ぎ、秋から本校での留学を開始できないという不測の事態に陥ります。
(本校で管理される公式成績証明書を本校に届けるだけの話なのですが … 十分に間に合う時期に依頼し、その後、何度も事務局に行って催促したにも関わらず … 本当に馬鹿げたことです。今の時代なら手続きがもっと早く行われ、そのようなことは起こらないでしょうが)

 

予定していた秋からの大学院留学が頓挫したものの、仕事をすでに辞めてしまった状況でもあり、できるだけ早くアメリカに渡りたかった私はテンプル大学本校のESL(英語プログラム)への入学を認めてもらうことでVISAを取得し、9月末頃に渡米。10月半ばから2ヶ月間、テンプル大学本校のESLプログラムで学んだ後、翌年1月から心待ちにしていた本校での大学院クラスが始まります。

 

大学院の授業での初日のことは忘れられません。そのクラスの担当はロシア人でありながら、テンプル大学TESOLプログラムの主任であった女性教授。授業の冒頭で教授から、フィラデルフィア在住の移民に英語を教えるプログラムを行っている男性ディレクターの紹介がありました。クラスの学生達を前にして、フィラデルフィア訛りの強いディレクターはプログラムの概要を説明しながら、ボランティアとして働く学生を募集しているようでした。

 

「ようでした」と書きましたが、私には男性の話がまったくといっていいほど分りませんでした。

 

TOEFLではListeningが一番得意でした。テンプル大学の日本校では大学院のクラスを1年間受講し、またフィラデルフィアの本校のESLで2ヶ月ほど学んでいたにも関わらず、目の前の男性が何を言っているか理解できていないことに大きな衝撃を受けました。

 

そしてその後、そのクラスでさらなるショックを受けます。テンプル大学の日本校では、教授によるレクチャーが中心だったのですが、本校では、教授と学生同士のディスカッションが授業の大部分を占めていました。そのクラスでは留学生はほとんどいなく、また1月だったので英語教授法のプログラムの新参者は私だけ。クラスメートはもの凄いスピードで自分の意見を言い合う、様々なエスニックバックグラウンドを持った人たち(教師経験の長いおしゃべり好きなおばさんが多かった …)。話についていけず、圧倒されている私。自ら手を上げて話に参加することはできません。

 

ただただ、そこに座っているだけ。それが私の大学院留学の初日のクラスでした。

 

大学院留学での私の苦難はそのクラスにとどまりません。他のクラスでもほとんど発言できませんでした。あるクラスでは教授の指示により、毎回学生が4-5人のグループを形成し、課題の読み物に関してお互いに意見を述べることが求められました。これは過酷でした。

 

週2回のそのクラスのために、課題の書籍を毎回多量に読む必要があるだけではなく、内容に対してその都度ランダムに形成されたグループ内で学生同士、意見交換をしなければなりません。教授は特にディスカッションのポイントを指示することなく、課題の範囲に対して学生同士が自由に意見を述べ合い、グループの意見をまとめることを求めたので、私はときにグループのメンバーが読み物のどこについて話しているのかついて行けなくなることも。

 

ある日の夕方、翌日のグループディスカッションに備え、自分の部屋で課題に取り組んでいると、同じ寮に住んでいたカタール人の友人からの電話がありました。電話口で尋常じゃない様子を察知し、彼の部屋に行くと、そこには同じように頼まれてやって来たアメリカ人の友人もいました。そしてカタール人の友人は前日、自らの身に起こった衝撃的な出来事を私たちに話し始めました。アメリカ人の友人と私は更なる被害の発生を避けるためにそのまま彼のそばにいることにしました。

 

夜中の2時を過ぎ、その日はもう安心できる状況になったと判断し、当分の間の解決策を決め、寮のそれぞれの部屋に戻った私とアメリカ人の友人は電話でカタール人の友人の今後のサポートについて話しました。電話を切った後、心身ともに疲れ果て、数時間後に始まるクラスの課題に取り組める状況でもなく、また準備しようとしても時間が十分にないのは明らか。

 

朝を迎え、課題は半分くらいしか読み終えていない状況。読み終わっていなければ、当然、課題の内容に対して自分の意見を述べることはできません。

 

私は授業をサボる決断をします。どうせサボるならとその日 New York City近くのニュージャージー州に住む友人に連絡し、その日(確か金曜日)から週末にかけて泊めてもらうことに。

 

New York City行きの列車が出発する駅に向かうために寮の近くからバスに乗る私。ところが、乗ったバスには私がこれからサボるクラスに向かうクラスメートの韓国人留学生の女性がいました。

 

「クラスには出席せずに、これからニュージャージーに住んでいる友人のところに行くんだ」とクラスメートに伝える私。

 

その後、バスの中で彼女とどのような会話をしたかのか記憶にないのですが、そのときの私の感情は今でもよく覚えています。彼女がどう思っていたかは分かりませんが、私としては現実逃避をしている姿を見られ、最悪の気分でした。

 

しかしこの逃避を境に私は開き直り、分からないなりにクラスについていくことを心がけます。セメスターが後半に入るころには、様々なエスニックバックグラウンドをもっているクラスメートたちの癖のある話し方に徐々に慣れてきました。とは言っても、そのクラスでは自主的に発言することはほとんどありませんでしたが。

 

当時の私が英語をより聞き取れるようになったのは週2-3回、毎回3-4時間働いていた大学内でのパートタイムの仕事のおかげもあったかと思います。次回の「その2」では大学院が始まった頃に開始したアルバイトについて書きます。

 

 

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